31日夕方、松山市立子規記念博物館を太田幸伸市議と訪問。指定管理者(株)レスパスコーポレーションの施設管理者 岡本美智子部長と懇談。
岡本部長とは前の職場(株)ジョイアートジョイアート(坊っちゃん劇場の経営)で交流がありました。

懇談後、子規記念博物館を見学。
https://shiki-museum.com/

松山市立子規記念博物館は、正岡子規の世界をとおして、より多くの人びとが松山の歴史や文学に親しみ、理解をふかめていただくために開設された文学系の博物館。
市民の知的レクリエーションや学校の課外学習の場、研究者のための情報機関、また観光客のビジターセンターとして親しまれています。
博物館では現在およそ7万点の実物資料や書籍を収蔵しており、正岡子規の一生を紹介する常設展示のほか、年2~3回の特別展・特別企画展、また各種のイベントを開催しています。

革めて故郷の偉人の生き様に大変感銘をうけました。

【正岡子規について】
正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日(新暦:10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町)で生まれました。
5歳のとき父を亡くした子規は、祖父大原観山の訓育を受け、叔父加藤拓川(後外交官、松山市長)の影響を受けました。
自由民権運動に触発され、政治家をめざして明治16年に上京、第一高等中学校、帝国大学文科大学に進学します。

しかし、22歳のときに喀血して「子規」と号したころから真剣に文学を志し、大学を中退して入社した日本新聞社で、俳句や短歌の革新を叫び、新体詩を試み、写生文をとなえました。明治28年からは脊椎カリエスの病苦にあえぎながらも、死の2日前まで随筆「病牀六尺」を発表しつづけて、明治35年(1902年)9月19日に亡くなりました。「写生」に根ざした子規の文学は、多くの仲間とともに子規山脈を形成し、近代文学史上に輝いています。